このサイトの表題ともなっている「居留地ものがたり」。
実は本来は以下のように『居留地物語り』という昭和6年1月から5月までの神戸新聞の連載のタイトルでした。
全110回となります。以下に紹介しましょう。
神戸新聞『居留地物語り』昭和6年1月11日〜5月
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堺港の身代わりにー開かれた兵庫港 |
2 |
未だに見劣りせぬ当時の異国街情緒ー貿易上功績を残すこの一角 |
3 |
日本人入るべからずー時代のあった遊園地ー市へ引き継いだ当時の経過 |
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今でも使われる地番ー所有権はころころと変わったー名残をやめるその境界線 |
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外国館の草分けは10番のプロシア商会ー煉瓦に残るエピソード |
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異人街から聞こえた姉さん達の茶焙じ唄ー古くから残る各種の建物 |
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金唐革の兜を被り先頭に立つ消防隊長ー記念碑に残ったシーム氏 |
8 |
工業都市の序曲もこの一角から演奏されたー古くただひとつ残る範多商会 |
9 |
最初の各国落札者 片言で綴られた文献ーそれだけ異国情緒が漂う |
10 | 最初は坪2円余り、次で5円と鰻上りー隔世の感ある当時の地価 |
11 | 時にはぼろい儲け 外商を大将と奉ったー先方御意のままの商品取引 |
12 | 売込商の小僧は今日の大貿易商にーようやく目覚めた外商との取引 |
13 | 取引を改善したサミュエル事件解決ー外商と売込商との条件目録 |
14 | 端銭は切り捨て 支払いは必ず夜中ー当時の各商品取引の慣習@ |
15 | 茶、米の花形時代 兵庫市場はその名残ー当時の各商品取引の慣習A |
16 | 買い付け品の引き取りは大阪の運送店が代行ー当時の各商品取引の慣習B |
17 | 競馬当日は休日 外人本位の税関事務ー貿易が促した神戸港設備 |
18 | ビードロの家に驚いた神戸村の人々ーアメリカ、国産など波止場の起こり |
19 | 新商戦に活躍した清国商人と大阪商人ー神戸人は案外引っ込み思案 |
20 | 邦人の覚醒奮起で外商脅威を感じ出すー金融業者の支持が力あり |
21 | 船成金族生時代 外人土地を漸次回収ー当時の地価は3,400円見当 |
22 | 一坪の値が2000円 全盛時代の記録的地価 倉庫を持った商館の特徴 |
23 | 今なお払う市の犠牲 永代借地権の免税ーさらにそれを悪用する外人 |
24 | 市民一人20銭ずつ税金を代わって納める訳ーハーグ仲裁判決の解釈 |
25 | 市が悩む滞納処分 政府の態度、煮え切らずー財政窮迫の折柄、よい財源 |
26 | 強制徴収できねば国庫で補給されたいー引き続く市と政府との交渉 |
27 | 判事伊藤俊介の雑居地徴税の方針ー政府買い上げはついに不成功 |
28 | 堺妙国寺事件で倒れたフランス人も埋葬ー外人墓地に絡まる諸問題 |
29 | 大抵のスポーツは行われた東遊園地ー外人相手の貸し馬屋もあった |
30 | 内外人民偕楽遊園 授受に絡まる経過ー日本人の出入りができるまで |
31 | 国際委員会ができ内外人の親睦を増すー永代借地問題も同会に期待 |
32 | 世界各国の領事館続々と解説されるー民国人は神戸来住の先駆 |
33 | 内外の顕縉集まり 晴れの居留地引継ぎ式ーかくてようやく市所有となる |
34 | 今や一万人に近い39国の人々がいるー今昔の感深い在留外人別 |
35 | 輸出入で800万円 明治6年の神戸貿易ー今の輸入一旬分に足らぬ |
36 | 20年間に約10倍 内容も充実してきたー日清戦争前の神戸港貿易 |
37 | 自主的地位を発揮 対外諸条約も好転ー日清戦勝のもたらした貿易会 |
38 | 輸出港への転換もさして困難ではないー神戸特殊産業助長の必要 |
39 | ひところは20億円近い神戸港の輸出入総額ー増えてきた品減り行く品 |
40 | 輸出額は約13倍 輸入は7倍に止まるー明治29年と現在の比較 |
41 | 新しい輸出品では菜果類からビール、清酒ー豆類と茶の消滅は惜しまれる |
42 | 報われた努力の賜物 神戸新興工業の各種ー隠れた国際決済資源 |
43 | 製品の輸入は激減 国民生活を物語るー最近輸入品に現れた傾向 |
44 | 今は移転し去ったいわゆるキリシタンの教会堂ー敷地地券の妙な特別条項 |
45 | 円満に移転できたユニオン・チャーチー 跡には三菱銀行三宮支店 |
46 | 海近くそびえていた聖母7つの悲の教会ーカトリック・ミッション |
47 | 乾新兵衛氏活躍し 露国領事館跡を買うーカトリック・ミッション移転 |
48 | 遊歩規定に縛られ 域外布教に苦労したーマイヤース師の思い出話 |
49 | 三田藩の九鬼子も 早くからキリスト教信者ー医療や教育で日本人伝道 |
50 | 教育から慈善事業 伝道に払われた色々ー今一休もあった牧師生活 |
51 | フランスの料理人が包丁一つで創始したーオリエンタルホテルの起源 |
52 | 再三火災に遭ってその都度焼け太った オリエンタルホテルの新築 |
53 | 全く神戸人の手に 浅野翁の経営を経てーオリエンタルホテルの経営 |
54 | 外人専門の食料店 今尚特別な地位あり 初めてできた屠牛場の話 |
55 | 名物神戸牛の起こり 外人の必需から発達ー日本人が牛肉を食べ始めた話 |
56 | たくさんな六甲山の池 それは天然水の産出ーラムネに酔った当時の話 |
57 | 珍しい洋食食いに重箱ささげた日本人ー生の蔬菜に困ったホテル |
58 | 郷土産の愛着から 今尚絶たぬ食糧輸入ー目新しい飲み物食べ物 |
59 | 重宝がられたアマ 外人たちの生活様式ー同地域内に鳩の多いわけ |
60 | 裁縫、理髪、両替から 海陸産の輸出入などー重要役割を演じた民国人 |
61 | 港に無くてならぬ神戸通関業者の消長 今の上組の名の残ったわけ |
62 | 世襲の浜頭の手に握られた労働市場ー組織化された今日まで |
63 | 百人部屋をこしらえた地角力肝關の浦清五郎ー上組が大きくなった経過 |
64 | 全く隔世の感ある港湾倉庫の営業振ー通関業はもっぱら邦人の手に |
65 | 今日偉観を誇る神戸港頭の各倉庫ー通関業の鼻組ニッケル氏 |
66 | 網屋吉兵衛の偉業 安政時代の防波工事ー今の築港からたくさんの石塊 |
67 | 木造から船桟橋に 不便だった荷役設備ー潮浸りになったメリケン |
68 | 港湾の施設と共に 出入り船も大きくなるー地元も懸命になった兵庫港 |
69 | 大南京や陸軍大尉 変り種の外人回漕業ー地元からは川西氏が進出 |
70 | 今や一年の入港船4507隻の多数ーそれが内外船対抗の状態 |
71 | 競争場裏の各国船 断然日本船優先の緒線ー欧米の大船巨舶主義著しい |
72 | 邦船が断然優勢な 民国各地への航路ー将来活躍を期待される南洋 |
73 | その頃、太平上の覇者 今は敏馬沖に繁留ー船の新陳代謝と会社の消長 |
74 | 邦船の遠洋初進出 明治19年にハワイへー紡績とあいまって漸次発展 |
75 | 当時日本一の大船 5800トンの土佐丸ーお祭り騒ぎして晴れの欧航へ |
76 | 外航は次第に発展 郵船支店も拡張されるー当時居留地開店は大得意 |
77 | 永代借地権で買収で 登録税を免除の先例ー郵船の支店敷地買収の話 |
78 | 代表的広壮建築のオンパレードを出現ー大阪商船会社生い立ちの話 |
79 | 貿易商続々海岸へ 自主的活動への割期ー 三井物産も船舶部を置く |
80 | 大小直輸の族生 最大工業の川崎造船ー珍しい大資本の山陽鉄道 |
81 | 外人のガス会社 競馬積立金で設立 電燈を危険視した日本人 |
82 | 波乱曲折あった 外人製紙会社の設立ーやがては日本人の手に移る |
83 | 外銀は最も古く 神戸貿易市場で活躍 やがて日本人行員も採用 |
84 | 外国銀行の中にも有為転変があったー焼け太ったナショナルシティ |
85 | 為替ブローカーも まず、外国人が先鞭ー日本人での鼻祖は岡田氏 |
86 | 今に解けぬ秘話 ドイツ人の秘密結社ー欧州大戦と猛烈な排独 |
87 | 犯罪人の逃避地 弱かった日本ポリスー陣笠姿の中国巡査もいた |
88 | 世襲の多い艀(はしけ)業 いまや2200隻 100トン積みでいばった頃の話 |
89 | モボは商館通い モガは茶焙じ場へー福原行きの車賃3銭の頃 |
90 | 一分銀を標準に 複雑した内外の取引ー金貨本位になるまでの経過 |
91 | 怪火や白骨現る 三宮局敷地のグロ話 ー家事が多くて消防が発達 |
92 | 外人を偏重したポリスの職務規則ーともすると国際争議化する |
93 | 幾十年か遅れた葺合方面一帯の開発ー内外人雑居地に絡む問題 |
94 | 外国人に対して無作法は相ならぬー事なかれ主義の諸規則 |
95 | 県がてこずった海岸施設の取り締まりー外人の勝手な私設乗船場 |
96 | 異色な港務局長 田代大佐や藤井氏ー故加藤伯が郵船の桟橋係 |
97 | 小野浜駅ができ 面目一新した神戸港ーそれまでの唯一施設蟹川桟橋 |
98 | 光栄の鉄道桟橋 東西連絡の主要機関ー郵船だけが使用を許される |
99 |
初めもてあまされた 雑居地の徴税と貸借ー地券税則実施でようやく解決 |
100 | 気象観測の初め 初代マルシャル港長の熱心さー港の取り締まり水上署の変遷 |
101 | 無賃のうえに景品 汽船会社の無茶競争ー郵船、商船ができるまでの話 |
102 | 清国人の密貿易 政府取り締まりに苦しむーその活動は各国人をリード |
103 | 両替商集会所の 洋銀空売買検挙されるー一日の取引が200万ドル |
104 | 次々に新手段で 洋銀投機取引の企てー血眼になった当局の手入れ |
105 | 投機を去勢した公認取引所の設立ーしかし不振続きでついに解散 |
106 | 尖端的な電信機 ギルバート氏の設計ー各事業とも傭外人が多かった |
107 | ずいぶん崇った贋金 電信料にもその規定ー暗号や横文電報も取り扱う |
108 | 外電わずか70通 今はそれが千通以上ー警戒が厳重だった万国線 |
109 | 集配人わずか4人 それで全神戸を配達ー郵便も対外関係に促される |
110 | 断然たる洋学熱「神戸遊学」も多かったー最も古い明親館の歴史 |
以上です。旧字体は現在使用されているように変えてあります。
当時これを書いた 日本人記者はまた読者もそうだと思いますが、居留地に住む外国人たちのすることを肯定的に何もかも受け入れていたのではないということが見出しだけでもわかります。むしろかなり批判的に見ており、最後のほうになると「居留地」内の外国人の働きによる影響のみでなく日本が近代化への発展を遂げている様子が記されています。