新潟

「新潟には外国貿易のない開港場であり、外国人もほとんど住んでいない。

去年も今年も外国船は一隻も入ってきておらず、外国の商館は2つしかない。

いずれもドイツのものである。外国人はわずか18人で、宣教師を除くとほとんどが

政府[新潟県]に雇用されている。・(中略)・・しかし新潟は5万人の人口を擁す美しく

繁華な都市である。・・・複数の主要な裁判所や立派な学校、一つの病院そして兵営もある。

ファイソン氏の家の近くには県庁の建物が集まっている。・・・一人のヨーロッパ人の医師の計画に沿って

できた医学校が附属する大きな病院や、(県庁)、(裁判庁)と言われる裁判所、複数の学校、兵営、

そしてほかのどれにもひけをとらない銀行の大きな建物はすべてヨーロッパ風であり、

進取的で存在感はあるが、ごてごてしていて趣に欠ける。

たいへんうまく設計され、砂利をきれいに敷いた遊歩道のある大きな公園もある。」

イザベラ・バード著『完訳・日本奥地紀行 』全4巻(金坂清則訳) 第20報 新潟 平凡社

以前にこちらで紹介したアーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新」よりも

各居留地の描写(長崎は除く)は詳しいです。

参考

新潟港明細図(明治16)[部分] 赤○をクリックすると現在の写真が見られます。(2016年11月撮影)(2020年9月一部更新)

新潟港獨案内 明治13年 

 当時の新潟町の地形と現在との大きな相違点(青柳正俊様の考察より)(←ご協力どうもありがとうございました)

・ 町中に堀があった。(高度成長期にすべて埋め立てられた)

・ 信濃川が広く砂州があった。

・ 海岸に広い砂丘があった。

 現地調査の目的:参考図書のところで挙げた「明治の異人館」という本の中に以下のような記述がありました。

   新潟も開港当時は外国人の多くの来住を期待して、「官許新刊新潟全図」(明治3年刊)(内閣文庫蔵)には運上所に隣接する

   下島に「此辺外国人居留地目論見地所也」と付紙されて、来住外人のための地所が用意されたが、そのような事体の展開を

   みるに至らなかった。・・(P73)そこで私もその付紙か記述が見当たらないか、と思い以下の古地図を見せていただいたので

   すが、残念ながら確認できませんでした。どうやら内閣文庫所蔵のものだけに見られるようでした。

   参照させていただいた古地図:「官許新潟全図「藤原秋陽編 明治3

                   「官許新潟全図「藤原秋陽編 明治3 復刻版

                   「新潟の枝折」(石附熊太郎編 明治10年)

                   「新潟区全図」(作者不明 出版年不明)

                   「新潟警察署管内全図」(新潟警察署編 明治21)

                   「官許新刊新潟全図」「越後新潟全図」

                   「新潟区全図」(明治16)

                   「新潟市實測図 附港口沿革変遷深浅図」(元禄享保明治)

                   「新潟市商業家明細全図」(明治29)

                   「新潟沿革図」(金子錦二編 明治13)

        他に参考文献はこちらをご覧ください。

 異人池とどっぺり坂・・現在は池はなく、坂には階段がある。(右手に喫茶店)

  「柾谷小路が西大畑町の砂丘に突き当たる砂丘のふもとに、明治大正頃大きな池があり砂丘には大きなポプラが

  そびえたち、影を池に落として落ち着いた風景をなしていた。この池畔に明治初年以来カトリック系の教会が建ち

  異人の住宅が建てられて、新潟の異人屋敷といえば南山の異人館と共に並び称せられてきた。・・・大正中頃から

  池はだんだん埋まって小さくなり、中央に通路ができていたが、昭和初年に埋め立てられて住宅街となり、異人池は

  姿を消して、今ではカトリックの尖塔だけが昔の風景を偲ばせている。」(「新潟開港百年史」166P)

   * 参考図書:「ある池のものがたり」(三芳悌吉著 福音館書店 1986)

イタリア軒についての疑問(調査は新潟県立図書館によります)

 イタリア軒

  有名なイタリア軒のミオラが属していた曲馬団の名前には2説(チャリネかスリエか)ありますが、どちらが正しいでしょうか。

1.チャリネ曲馬団説

 (1)「新潟市史 資料編5近代T」P627

    「イタリア軒沿革 明治七年夏、仏国「スリエ」ナルモノ、諸外国人男女数十名ヨリ成ル「チャリネ」曲馬団一行ヲ率イテ新潟ニ来タリ・・・    一行引揚ゲニ際シ、団員ノ一人ナル伊太利国人「ピエトロ・ミリオーレ氏」ハ事故ノ為同行スルコト能ハザリシタメ・・・」

 (2)「イタリア軒沿革」(イタリア軒〔1931〕)上記の出典、同一内容

 (3)「新潟古老雑話」(1931年初版発行)p89

   「イタリア軒  イタリア軒もお蔭様で繁盛しているが、其起源は明治七年曲馬師チャリネ一行が、新潟毘沙門島へ興行に来て引き    揚げの際残していったのが、イタリア軒最初の主人ミオラさんで・・・」

 (4)「新潟かわらばん」(笹川勇吉著 鳥屋野出版 1988)p22

    「イタリアよりチャリネ団が新潟を訪れ、天幕を張って興行し街中がわいた。その賭方だったピオトロ・ミオラが事故のためひとり

    新潟に残ることになり・・・」

 (5)「イタリア軒物語」(田村民雄著 新潟日報事業社 1964)p46

   「チャリネ曲馬団に入って、ミオラの一行はしばらくイタリア国内を巡業していた。・・・シュリエのひきいる曲馬団は・・・」

2.スリエ曲馬団説

 (1)「新潟開港百年史」p154

   「イタリア人ピートロ・ミオラ(ピエトレ・ミリオーレ)は明治7年9月フランスのスリエ男女曲馬団員として一行と共に来港し・・・ミオラは   単身新潟にとどまり・・・イタリア軒を開いたが・・・」「なおミオラの属した曲馬団をチャリネ曲馬団と記す文献もあるが、それに関してわ   が国の曲馬団の歴史を調べてみた。近世舶来サーカスの始めは、元治元年3月イギリス・サーカスおう一座が横浜で興業したのが始め  で・・・其後サーカスは明治4年10月にフランスのスリエ一座が来朝し横浜を皮切りに各地で興業した。そして十数年 後の明治19年に  は、イタリア人のチャリネ一座が来朝した。」「イタリア人なので、19年に来朝したチャリネ曲馬団と混線して誤り伝えたのではあるまいか。」
    

(2)「新潟市史読本」p208
  「イタリア軒を始めたイタリア人ミオラ(ピエトロ・ミリオーレ)がチャリネ曲馬団に属して明治七年新潟に来たとする、「新潟古老雑話」の説    はおそらく誤伝であろう。なるほどジー・チャリネはミオラと同じくイタリア人ではあるが、わが国に最初に来たのが明治19年である。(「明治文化版画大鑑」)「ミオラがコックとして属していたのは明治4年来朝し九段の靖国神社境内でわが国で最初の曲馬を公開したフランス人シュリエの曲馬団である。(「イタリア軒物語」)

3.曲馬団史

 (1)「ニッポン・サーカス物語」(三好一著 白水社 1993)p167,170     

    「明治になって最初にやって来た舶来の曲馬はフランスのスリエ曲馬一座だが、京都でのその興業は明治五年  七月   (1872)・・・に行われた。「舶来の曲馬の第二団として明治20年4月8日、イタリアのチャリニ曲馬一座が京都にやって来た。」

 (2)「サーカスの歴史」(阿久根厳著 西田書店 1977)p41ー43、p75    「明治4年(1871)8月、外来見世物の第2番目、フランス人スリエの曲馬団が・・・」    「スリエはまた思わぬところにエピソードを残している。明治七年(1874)に、再度来日したスリエ曲馬団が、5月に新潟湊町で興業のとき、座員(食事の賄い)のイタリア人ピエトロ・ミオラ(ミリオーレ)が病気で倒れた。一行が引き揚げる際、ついて行けず、異国の町に一人取り残された傷心のミオラに、時の楠本県令が同情し牛肉店を出させた。やがて西洋料理にも手を広げ、明治13年レストラン・イタリア軒を創業し、大正9年11月、ミオラは故国で死んだと伝えられている。(岡田民雄「イタリア軒物語」)「明治19年(1886)、伊太利チャリネ大曲馬団の一行は上海より来日・・・」      

○1のチャリネ曲馬団説も、「イタリア軒沿革史」を出典とした資料は「スリエの率いる」というような表現になっている。

○チャリネ曲馬団の来日は明治19年なので、チャリネ曲馬団に属しての来日はありえない事になる。

○1,2,3を総合すると、イタリア人ミオラが属していたのは「フランス人スリエの率いるスリエ曲馬団であった

  解釈できる。

新潟居留地研究会 会報内容

 2018年の発足以来、2023年1月現在で第6号まで発行されています。     

 以下にタイトルをご紹介します。     

 創刊号 2019.2.28発行     

 第2号 2020.12.24発行     

 第3号 2021.3.1発行     

 「パーム宣教師の活動」(年表) 発表者:白砂誠一 

 第4号 2021.7.31発行     

 <1> 北越学館の教育と経営 ― 館長 加藤勝弥を中心にして 報告者 鈴木孝二

 <2>「アメリカ改革派教会の北日本伝道記録(描写)」(上) 翻訳:白砂誠一

 *原書:E Rothesay Miller; ”Sketch of the North Japan Mission” 1901.NEW YORK(R.C.A.) (T部:序文 U部:福音伝道の記録)

 第5号 2022.2.11発行     

 <1> 「S・R・ブラウンが新潟で住んだ家の場所についての一考察」 報告者 小林敏志

 <2>「アメリカ改革派教会の北日本伝道記録(描写)」(下) 翻訳:白砂誠一

 *原書:E Rothesay Miller; ”Sketch of the North Japan Mission” 1901.NEW YORK(R.C.A.) (V部:教育的な事業)

 第6号 2022.12.25発行     

 研究報告 改題「米国改革派教会の北日本伝道記録」E.ローゼ・ミラー著 報告者(訳者)白砂誠一


<リンク>

新潟県立文書館

新潟県立図書館

(越後・佐渡の絵図が見られるコーナーがあります。

ご協力どうもありがとうございました)

新潟市歴史博物館みなとぴあ

新潟ふるまち Official Guide Web

(オススメは古町歴史館のページです。)

にいがた文明開化ハイカラ館

新潟県探索

(新潟県内の近代建築写真が充実しています。)

西大畑・旭町かいわい

(街歩き地図もDLできます!)

敬和学園大学学長室だより

(新潟の音楽・文学・美術の萌芽とその後)

新潟郷土史研究会

(会報誌「郷土新潟」が充実しています。)

新潟日独協会

(新潟ドイツ領事館跡記念碑が建立されました。)

新潟居留地研究会

(白砂誠一・個人ブログ)

新潟警察署(左)と新潟市役所(右)


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